
端島には生活に必要なあらゆる施設が揃っていたと言われます。なかったのは墓所と高校くらいなもので、それ以外の生活必需機関は公
共施設はもとより、病院、小中学校、保育園、プール、から、寺社、旅館、パチンコホール、麻雀店、生協販売店、個人商店、理容・美容
室と、あらゆる施設が満載されていました。そして一番の驚きはその街自体がおさまっていた面積にあります。
端島の閉山時の総面積は63,000平方メートルですが、その総てが街だったというわけではなく、約25,000平方メートルは炭
鉱施設のあった鉱業所の敷地なので、残りの約38,000平方メートル、つまり200m四方弱の中に、最盛期は5,000人以上の人
が住み、必要最低限の都市機能があったことになります。
そしてこれらの共有施設の殆どが、病院や学校など単独で成立している施設を除いて、鉱員社宅の建物に組み込まれていました。(唯一
例外としては、社用以外の行商人等が利用した旅館とその階下のスナックだけが、職員アパート(25号棟)にありました。また職員住宅
にあった共同浴場(8号棟1階)は、戦後の職階級崩壊の後に鉱員も使用するようになりましたが、以前は職員だけが使用していたものな
ので、本来は職員用施設だったと考えられます。共同浴場に関しては『昭和のタイムカプセル』で詳細解説)