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お邪魔します。 投稿者:羽澄不一  投稿日:2009/07/25(Sat) 07:35 No.4446

ご回答有難うございます。
鉱場への出入り口が30号棟近くに一箇所のこと。
軍艦島に関する資料(戦後)に鉱場への入り口がドルフィン桟橋の近くとか、何とか書かれているのはこの場所ですか(うろ覚えですが)?
人道トンネルを出た辺りですかね?
地図を見ていると、何か「緑の道」だったかな(これも今、手元に地図がないので、うろ覚えですが)?
山沿いに道があり、階段が記されていますが、あれは鉱場への道ではないんですね?
山から下りるシーンが映画「冒険者カミカゼ」にあったとは知りませんでした。
すでに使われているアイデアはなるべく使わないようにしますので、没とします。
「クローン侯爵」は原稿用紙240枚になり、前半の下書きが終わりました。
前半は軍艦島に連れてこられた中国人たちが反乱を起こし、「端島共和国」を樹立する話です。
仮に軍艦島を独立国にするようなアイデアがすでにあったとしても、内容は絶対に違う独自のものですから、この点は変更しません。
後半は日本人が主人公(多分)で、全く別の趣向で書きます。
数日休養して、執筆に取り掛かります。
右肘の怪我は大分良くなりましたので、一カ月以内に中仙道みたけ館に行く予定です。

Re: お邪魔します。 羽澄不一 - 2009/07/25(Sat) 07:39 No.4447

戦前などは特に、多分「端島砿業所」という名称が、看板などに使われていますよね?

Re: お邪魔します。 管理人 - 2009/07/25(Sat) 14:42 No.4448

ドルフィン桟橋の近く、つまり、乗船場の近くに鉱業所への出入口があったかどうかは、
今記憶が定かではありませんが、
以前に何度か話題に上った乗船場から住宅棟地域へ抜ける人道トンネルの途中には、
鉱業所へ出られる階段ありました。
『軍艦島全景』のp148を参照頂ければと思います。

また一つ前に書き込みました30号棟付近の出入り口は、
おっしゃるとおり、ちょうどトンネルをでたところです。

「緑の道」は通称「山道」と呼ばれた道のことだと思います。
トンネルを出たところから、岩礁の鉱業所側の中腹を通って、
65号棟方面へ通じる道です。
位置関係を整理すると、
トンネルを出るとちょっとした広場があり、
右に鉱業所への出入口、左に住宅棟への道、正面に山道への階段、
という感じになります。

端島炭鉱の正式な名称は「三菱砿業株式会社 高島砿業所 端島砿」(閉山時) で、
その歴史を通して、初期の一時期をのぞいて、殆どは隣の島の高島炭鉱の支鉱でした。
「高島砿業所 端島砿」という表記はよく見ますが、
「端島砿業所」という表記は見たことがありません。
戦前の看板でこの表記があるものをご覧になられたということですので、
よろしかったら出展などを教えて頂ければと思います。

ところで一つ前の私の書き込み(No.4444)の最後に
船頭小屋の話をアップしましたが、唐突でしたね。
26号棟の建っていた場所が、かつては艀の船頭小屋があった場所なので、
この話を書き込みました。
説明不足ですみませんでした。

『クローン侯爵』は、お話を伺う限り、相当ぶっ飛んだ作品のような印象を受けましたので、
面白そうですね。



邪魔します。 投稿者:羽澄不一  投稿日:2009/07/22(Wed) 10:31 No.4441

「死者への手紙」195頁を確認してみました。
これだけでは朝鮮人の寮とも、吉田飯場ともつかない記述ですが、例えば吉田飯場などに住んでいた朝鮮人の方が、結婚したり、故郷から奥さんを呼んで所帯を持った場合、同じアパートの別の部屋を借りたという事はあり得るのではないでしょうか。
資料を読み返しましたが、39〜48号棟の辺りに朝鮮人寮があった感じの記述が幾つかありますね(しかし、「死者への手紙」43頁の写真が引っかかりますが)。
30号棟は日本発の鉄筋コンクリートの高層アパートという事ですが、ここに吉田飯場があったかもしれません。
ただし、私はどこかの資料に半地下に吉田半場があり、何かの施設もあったという文章を見たような気がしましたが、見つかりませんでした。
中国人の寮についても、管理人さんの仰る通りの場所かもしれません。
端島銀座については、そういう呼称がされていたかどうかは知りませんが、少なくとも「中央商店街」という言葉は出てきます。
ところで、戦時中の炭鉱と市街地の出入りはどうでしょうか?
地図にはあまり出てこないようですが、第二坑と第四坑の入り口は、それぞれたった一つで、守衛室のようなものがあって、チェックしていたのでしょうか?
鉱場の周囲は崖は別として、柵で巡らされていたんですかね?
実は地図を見ていて、市街地に山が多く、鉱場が平地のようなので、炭鉱に忍び込むため、山から縄を使って降りるアクションシーンが出来ないかと考えているのです。
中国人の寮は南ですから、その辺りは平地で、こうしたシーンは作れないかな?
「クローン侯爵」は原稿用紙186枚になりました。
あと三章ほど書けば、前半部分の下書きは終了です。

Re: 邪魔します。 羽澄不一 - 2009/07/22(Wed) 10:33 No.4442

「半場」は「飯場」に訂正します。

Re: 邪魔します。 羽澄不一 - 2009/07/23(Thu) 10:25 No.4443

つまり、第一堅坑以外、第二堅坑〜第四堅坑は同じ鉱場という事で、柵か何かで囲まれて、市街地とは区別されていたか、守衛はいたかという疑問です。
26号棟なんかも怪しい建物ですね。建築された年代は問題ですが(私の資料には建築された年が明記してありますが、今手元にないので、何とも言えませんが……。今図書館のネットサービスを使って書いています。26号棟の建築された都市は私自身で確認出来ます)。
「クローン侯爵」は原稿用紙193枚になりました。
あと二章書けば、前半の下書き終了です。

Re: 邪魔します。 管理人 - 2009/07/25(Sat) 05:54 No.4444

▼羽澄不一さんへ

> 朝鮮人の方が、結婚したり、故郷から奥さんを呼んで所帯を持った場合、同じアパートの別の部屋を借りた
ということも確かに考えられますね。

戦時中の炭鉱と市街地の出入りに関しては、
戦時中に限らずだと思いますが、
鉱業所地域と住宅棟地域を分ける何らかのものはあったのではないかと思います。
戦後は、鉱業所の看板が付けられた門が、30号棟の横にあり、
そこから行き来していたようです。

元来端島自体が海という最大の壁に囲まれた土地なので、
島への出入りに目を光らせたという話は聴いたことがありますが、
特に二坑や四坑に限って、その入口を監視したという話は、
まだ聴いたことあありません。

>山から縄を使って降りるアクションシーン
ですが、これは1981年公開の東映映画『冒険者カミカゼ』に、
まさにそのシーンが登場します。
昨年末にDVDが発売されたので、容易にご覧になれると思います。

26号棟は、閉山時に建っていた建物はもちろん戦後建てられたものですが、
下請けの飯場として使われていたので、
戦中、どのように使われていたかは、おっしゃるとおり気になりますね。

『軍艦島実測調査資料集』には、
艀の船頭小屋の土地にしてはその造りがしっかりしていることから、
炭鉱開発の以前から海防の要所として開発された可能性も示唆していますが、
実は艀の船頭さんの島内での地位は、
かなり高かった、という話も聴いたことがあります。



お邪魔します。 投稿者:羽澄不一  投稿日:2009/07/19(Sun) 10:33 No.4437

中国人の住まいの特定、有難うございます。
助かります。
朝鮮人の住まいについては、端島病院隣と、39&48号棟辺りの二箇所という事でしょうか?
と、言いますのは、「死者への手紙」には、「戦後立てられた端島病院」とか何とか、書かれています。
一般的に推理すると、病院本体が出来る前に、隔離病棟が作られるはずは無いのではないでしょうか?
という事は、隔離病棟は以前は朝鮮人の住まいであり、戦後朝鮮人が軍艦島から出て行った後、端島病院の建物が出来た際、隔離病棟として使われた、とか???
戦前の人道トンネルや端島派出所についてはどうでしょうか?
「クローン侯爵」は原稿用紙126枚になりました。
執筆快調です。

Re: お邪魔します。 管理人 - 2009/07/20(Mon) 05:32 No.4438

▼羽澄不一さんへ

すみません、疑問に思われているポイントがやっとわかりました。
「戦後建てられた」という言葉遣いの問題ですね。
これは誤解を招く言葉遣いだと思います。
端島病院も戦前からほぼ同じ位置にありましたが、隔離病棟同様木造で、
「戦後建てられた」と言うのは、新しくRCで「建て替えられた」という意味です。
その点は林えいだいさんもご存知だったんではないかと思います。

端島では劣悪な生活環境(特にトイレ)からおこる赤痢等の伝染病対策や、
石炭の微粉を吸い込むことによっておこす、炭鉱労働特有の病気、「塵肺(じんぱい)」対策として、
はやくから病院の設備を整える必要がありました。

また朝鮮人の方々の寮に関しては、経験された方の手記に、
閉山間近に39号棟、48号棟が建っていた場所に以前建っていた、
木造の建物に住んでいた、という記述があることだけが確認できていることです。

隔離病棟を寮として使っていたかどうかは、私としては定かではありませんが、
『死者への手紙』に隔離病棟を指して「朝鮮人寮」と記述されているので、
そういった使われ方をしていたのかもしれない、と推測したまでです。
また『死者への手紙』のp195に、
「8階建てアパート」の「六畳の日本間と三畳の土間」の部屋に住んでいた、
という姜時点さんの記述があります。
そもそも「8階建て」という建物は端島にはありませんが、
30号棟が、一部に設置された半地下を追加すると8階建てとできなくもありません。
「六畳の日本間と三畳の土間」という部屋の構造は、
30号棟の部屋の作りに当てはまるので、
この方のお話だと、30号棟にも朝鮮人の方々が住んでいたことになります。
ちなみに昭和8年当時、6階以上ある高層アパートは30号棟と日給社宅だけでしたが、
日給社宅は全戸、2部屋+土間です。
また以前にも書きましたが、日給社宅の1階にも朝鮮人の方々が住んでいた、
という話も聞いたことがありますが、これも写真や沢山の書物に記述されるなど、
誰もが知る事実ではありませんので、正確なところはわかりません。

以上が現在私が知る朝鮮人の方々の住まいに関してですので、
より正確な位置を特定されたい場合は、
羽澄さんご本人でお調べ頂ければと思います。
逆に、なにか正確なところがお分かりになりましたら、
教えて頂ければと思います。

また派出所に関しては、以前に
本来必要はなかったが、治安面を考慮し、会社が賃金の援助までして駐在を置いた
といった旨の文章を読んだ記憶があったので改めてさがしましたが、
ちょっとみあたらなかったので、引き続きさがしてみます。

Re: お邪魔します。 羽澄不一 - 2009/07/20(Mon) 06:19 No.4439

管理人さんに詳細なご返事がしたいので、今回は新たなスレッドを立てませんので、ご了承下さい。
次回は新しいスレッドにします。
管理人さんのご指摘を元に推理すると、隔離病棟は戦前、朝鮮人の方々の寮として使われ、戦後、彼らが出て行った後、隔離病棟として使われた可能性があるという事ですね?
それとも39&48号辺りの木造二階建ての建物か(これは現在の端島銀座の近くですが、戦前も端島銀座はあったのですか?)。
30号棟のご指摘は正しいでしょう。
何かの本で、半地下一階(一階)に吉田飯場か何かあったと書かれていた記憶があります。
うろ覚えですが、確かめてみます。
日給住宅についてはどうでしょうか。
これも、何かの本に住んでいたと書かれていたような?
現在所持している資料が膨大なので、全て目を通していますが、どこに何が書かれていたかは、もう一度探してみないと正確には分かりません。

先日管理人さんが中国人の強制連行について書いていましたが、NHKが出している「幻の外務省報告書」などが、参考になるのではないでしょうか?

「クローン侯爵」は原稿用紙147枚になりました。
現在軍艦島の記述をしています。

Re: お邪魔します。 管理人 - 2009/07/22(Wed) 03:13 No.4440

▼羽澄不一さんへ

隔離病棟に関しては、ほぼおっしゃる通りです。
ただし戦前から隔離病棟はあったので、正確に言うと、
戦前からあった隔離病棟は、戦後しばらくしてRC造に作り替えられた。
ただ『死者への手紙』の記述が確かだとすると、
戦中の一時期、隔離病棟は朝鮮人の方々の宿舎として、
使われていた可能性がある。
といった感じです。

また半地下1階という記述から30号棟と決めるのは、
少し早いような気がいたします。
日給社宅の1階も、戦後は商店が入居し1階分の役割を果たしますが、
それ以前は居住空間扱いではない「防潮階」として、
半地下の扱いでした。
事実日給社宅の1階は地上レベルより下に降りていますので、
半地下1階という記述は、日給社宅の可能性も十分あります。

「吉田飯場」に関しては、おそらくまだご記憶がある方がご健在だと思いますので、
機会があったらお尋ねしてみようと思います。

また戦前の派出所、そして端島銀座にかんしては、
継続して調べてみようと思っております。

「幻の外務省報告書」の情報をありがとうございます。
機会がありましたら、読んでみようと思います。



お邪魔します。 投稿者:羽澄不一  投稿日:2009/07/18(Sat) 10:41 No.4432

ご回答有難うございます。
私の場合、情報が手に入ればそれでいいので、トップにはこだわりません。
ここはオープロジェクトさんの掲示板なのですから、管理人さんが掲示板を見る度に、オープロジェクトの本やビデオの宣伝をトップにするとかね。
まあ、そういう事でも、私は構わない訳です。
私の書き込みは常時、オープロジェクトの書き込みの次になっていてもいいという事です。
さて、ご指摘のbX5の写真を拝見しました。
同じ写真のようですね。
しかし、端島病院とは書いてありませんでした。
その点はいかがでしょうか?
これは現地を知らない私の単なる推測ですが、朝鮮人寮か吉田飯場とされていて、管理人さんが隔離病棟と指摘されている建物は、実は最初は朝鮮人の方々が住んでいる場所だったが、その後端島病院の隔離病棟に転用された、という事はないでしょうか?
また、中国人の住まいは、ひょっとしたら堅抗近くにあったのではないでしょうか?
軍艦島ではどうか知りませんが、強制連行された朝鮮人や中国人は各地の鉱山などで堅坑近くに住まわせ、坑口まで労務係とか警察などが見張りしたような資料もあります。
鴻訓は「クローン侯爵」の半分くらいの主人公です。
あと半分は別人です。
日本人の労働力確保のため、中国人や朝鮮人を徴用したというのは事実です。
当時は女性も職場にかり出されましたからね。
私も自著「透明人間アレフ」の中で、電車の女性車掌について、描いた事があります。
また、朝鮮人や中国人については「募集」という形を取りながら、実際は強制的に「人狩り」をしたという事もあったようです。
しかし、ここでは論争は止めましょう。
してもいいですが、場が荒れますしね。
いずれにしても、私は管理人さんが仰ったような事件について、「クローン侯爵」に記述するつもりですから。
読んで頂ければ分かります。
「死者への手紙」の「森本」、「森田」については、気付きませんでした。
私は朝鮮人と中国人について、調べていますので……。
本の誤植かな?
本って結構誤植がありますからね。

Re: お邪魔します。 羽澄不一 - 2009/07/18(Sat) 10:43 No.4433

言い忘れましたが、「クローン侯爵」は原稿用紙109枚になりました。
第一部の半分位に達したかな?

Re: お邪魔します。 管理人 - 2009/07/18(Sat) 16:55 No.4436

▼羽澄不一さんへ

それではオープロジェクトの情報などをアップした時は、
優先させて頂きます。ありがとうございます。

>「端島病院とは書いてありませんでした。」
とは、掲示板にアップした画像のことでしょうか。
でしたら右が端島病院、左が隔離病棟です。
また『死者への手紙』p43の写真も、同様です。

隔離病棟の位置にあった木造の建物は、
その戦前から隔離病棟として使われていた、
という記述を何かで読んだ記憶がありますが、
いま思い出せないので、探してみようと思います。
ただ、戦中の一時期だけ、
隔離病棟を宿舎として使用してい可能性も考えられると思います。

中国人の方々の住まいは閉山の頃プールがあった場所ですので、
竪坑および鉱業所施設に近い場所といえば近い場所になると思います。

「森田」or「森本」に関しては、確かに誤植ということも考えられますね。
ありがとうございます。



ありがとうございました。 投稿者:桃源児  投稿日:2009/07/18(Sat) 08:22 No.4431 <HOME>

当方のブログへのコメント、ありがとうございました。
こちらの記事は伝聞で書いたことで、詳しい方から見ると、正確ではないことが多かったようで、お恥ずかしい次第です。
素晴らしいサイトですね。時折、のぞかせていただこうと思っております。
ところで、気になっていることがあるのですが、長崎に原爆が落とされた時、軍艦島にも被害はあったのでしょうか。
被災程度など、ご存知でしたら、教えていただきたいです。

Re: ありがとうございました。 管理人 - 2009/07/18(Sat) 16:23 No.4435

軍艦島オデッセイをご訪問頂き、ありがとうございます。
拙いサイトですが、すこしはお役立ちできれば幸いです。

原爆が落とされた時の端島の被害状況ですが、
さすがに爆心地から20km離れているので、直接的な被災はなかったと聞いています。
ただ原爆の閃光と爆風による轟音は聞こえたと、
当時実際に島にいらっしゃった方から聞いたことがありますが、
当時は全くなんだったのか分からなかったそうです。



軍艦島 投稿者:どうぶつ  投稿日:2009/07/17(Fri) 09:55 No.4427

 こんにちは、以前も書き込みさせていただきいろいろな歴史を読ませていただいています。現在の上陸状態(観光)はどのくらいの動員があるのでしょうか?以前よりは格段増えているかとおもうのですが、、。

 炭鉱にはどうしても悲しい事件や話がつきもののような気がします。それにはなかなか言及されなかったり、恩恵を受けられなかった人もたくさんだったことが隠されがちです。結構その点軍艦島は話題の中に露出していますね。
 ネットの映像で見ましたがもう木造のものはほとんど倒壊してしまっているようですね、、また読みに来ます。

軍艦島2 どうぶつ - 2009/07/17(Fri) 10:33 No.4428

 校舎のグラウンド付近にあった長屋風はなににあたりますか?(教員宿舎とかきいたような気がしましたが)
 それから疑問なのが手術室です。普通に窓辺の写真だったのですが、ライトもあるんですが、普段の昼の手術はカーテン閉めてたんでしょうか?通行人も一階ならいそうですが、立ち入り禁止区域になってたのでしょうか?とても疑問です。

Re: 軍艦島 管理人 - 2009/07/17(Fri) 18:59 No.4429

▼どうぶつさんへ

いつも軍艦島オデッセイをご覧になって頂き、ありがとうございますm(_ _)m

上陸の動員は正確には分かりませんが、
やまさ海運が運行するマルベージャ一隻で約120~130人乗船できると聞いているので、
満席だと1日2便で100人から200人くらいは上陸しているんじゃないでしょうか。

端島に限らず、国内の炭鉱全てに光と陰があると思いますが、
炭鉱が歴史に残してくれた陰と陽を観ることが、
これから生きて行く上で、役に立つのではないかと思っています。

グランドにある長屋風で教員宿舎と言えばたぶん「ちどり荘」だと思います。
添付画像がちどり荘ですので、ご確認ください。
所帯持ち教員用の寮ですが、
メゾネットタイプであるものの、極めて狭く、
先生の待遇は、ちょっとよくなかったんではないかと思います。

それから手術室ですが、確かに1階の窓際にあります。
しかも窓枠は木製サッシュなので、
とても現代の手術室のような無菌室のようなものではありませんね。
炭鉱労働で怪我をされた方々の、外科的な手術がおもに行われていたようです。
もちろん内科的な大手術等は、長崎市の大病院へ行ったんだと思います。
そういえば高島炭鉱の手術室を写真で見たことがありますが、
端島よりはしっかりとした設備の手術室のように見えました。

Re: 軍艦島 どうぶつ - 2009/07/17(Fri) 21:09 No.4430

さっそくのコメントありがとうございました。宿舎はメゾネットタイプというの初めて知りました、1〜2階占有ということですね。(説明がいろいろだったので実際どんな建物だったのかが納得できました)
 手術室>応急の外科とかERみたいな役割だったのですかね、確か隔離病棟などもあったときいているので病院設備は結構なものだったんではとおもっていました。高島炭鉱は近しいとこにあった別な島ですね、また検索してみます。ありがとうございました。

Re: 軍艦島 管理人 - 2009/07/18(Sat) 16:09 No.4434

▼どうぶつさんへ

隔離病棟は病院に比べてかなりの大きさがあるので、それなりに意味のある施設だったんだと思います。
病院で一番印象深いのは、現在でも数多くのレントゲン機器が残されていることです。
炭鉱労働で一番憂慮される病気の一つに、石炭の粉塵を吸い込むことによって併発する、
「塵肺[ジンパイ](あるいは珪肺[ケイハイ])」と呼ばれるものがありました。
そのために、レントゲン機器が充実していたんではないかと思っています。
病院や隔離病棟の話は当サイト「軍艦島概説/ナノシティ/会社関連施設」
http://www.gunkanjima-odyssey.com/GS22-08-03.htm
に掲載してありますので、ご覧下さい。



お邪魔します。 投稿者:羽澄不一  投稿日:2009/07/15(Wed) 10:23 No.4422

ご回答有難うございます。
「死者への手紙」のページ数は調べてみますが、朝鮮人寮の写真は一つだけのような気がしますので、多分ご指摘の43頁じゃないかと思います。
軍艦島の朝鮮人寮や吉田飯場、中国人寮などは、仮に場所が特定出来ても、どのような外観、構造なのかは、どうせ調べても分からないでしょうから、他の本で朝鮮人寮として出ている建物を転用する事にします(兵舎風のバラック小屋)。
戦前の人道トンネルについては、あるかどうかは分かりませんが、幾つかの資料を見ると、旧桟橋に上がると石壁(護岸コンクリートか?)に小さな穴があり、それは「地獄の門」のように見えたとあります。
また、入り口には監視員がいたようですね。
小説「クローン侯爵」は原稿用紙47枚になりました。
現在、前半の主人公、蔡鴻訓は軍艦島に到着した所です。
戦中、協和会というのがあり、朝鮮人が加入していたらしいが、中国人にも当てはまるかどうか調べています。
この点については軍艦島とは関係ありませんので、私自身で調べます。

Re: お邪魔します。 羽澄不一 - 2009/07/15(Wed) 10:29 No.4423

協和会は、どうも在日朝鮮人専用のようですね。
まあ、これは私自身で調べてみます。

Re: お邪魔します。 羽澄不一 - 2009/07/15(Wed) 17:37 No.4424

自宅で確認しましたら、「死者への手紙」の43頁でした。
管理人さんは端島病院と隔離病棟となっている同じ写真をお持ちという事ですね?
それならば、林氏の間違いという事でしょうね。
「クローン侯爵」は原稿用紙49枚になりました。
執筆順調です。

Re: お邪魔します。 羽澄不一 - 2009/07/16(Thu) 10:19 No.4425

「死者への手紙」210頁5〜6行目にも、「寮」の記述があります。

「クローン侯爵」は原稿用紙59枚になりました。

私の書き込みは別に掲示板のトップじゃなくてもいいですよ。
軍艦島関係の情報が手に入ればいいのですから。
オープロジェクト関連の通知を常時トップにして下さっても、私は気にしませんよ。

Re: お邪魔します。 管理人 - 2009/07/16(Thu) 12:40 No.4426

▼羽澄不一さんへ

まずp43の写真の場所に関して、
この掲示板の書き込みを全てご覧になったとおっしゃっていたので、
すでにご覧になったかと思いますが、
この掲示板の投稿No.95 (今日付で過去記事[35]の上から2番目)にアップしてある画像が、
p43の写真と同じ構図のものです。

ただしp210の5〜6行には「北の端っこに建つ木造2階建て」とあるので、
やはりこの隔離病棟付近にも寮があったのかな?と思いました。

「クローン公爵」の主人公は蔡鴻訓とう名前だそうですが、
中国人の方を主役にしたストーリーなのでしょうか。

『死者への手紙』には朝鮮の方々の、過酷な労働状況が記録されていますが、
現在の人権的な視点からの見解が多く、
当時の時代的状況の検証や他国との比較などが、いささか少ない様に思えました。
当時日本の国民は働く朝鮮の方々を高見の見物していたわけではなく、
殆どの人が出征しているために、日本人の労働力が確保できなかった、
といった事情もあったと思います。

長崎市にある「岡まさはる記念館」を訪れたときに、
当時端島で労働をされた方の手記を読みましたが、
端島へ来ることになったいきさつを、
「あたかも強制連行のようだった」と表現されていたのが記憶に残っています。
つまり実際は強制連行ではなく徴用だということを、
ご本人は自覚されていたんだと思いますが、いかがでしょうか。

『死者への手紙』を読み返してひとつ気になった点がありました。
南部商店街にあった3件の遊郭ですが、
本のなかでは「森田」「本田」「吉田」の3軒とあります。
掲示板の過去記事にアプした様に、
私の知る遊郭は「森本」「本田」「吉田」なので、
「森田」or「森本」どちらが正しいのかな?と思いました。

掲示板の表示順位に関して、お気遣い頂きありがとうございます。
ただ新規の書き込みおよび新しいコメントがあると、
その記事が一番トップに来る作りになっている結果ですので、
お気になさらないでください。



お邪魔します。 投稿者:羽澄不一  投稿日:2009/07/12(Sun) 10:28 No.4420

ご回答有難うございます。
「死者への手紙」では、木造二階建ての建物が朝鮮人寮として写っていますが、これは隔離病棟と端島病院辺りの写真ですか?
すると、これは39・48号棟辺りにあった朝鮮人寮ではないのでしょうか?
「北西」という点は、厳密には北ではなくても、「北」という言い方をした可能性はあります。
ご指摘頂いた艀の写真は、そういえばこれまでに私が見た軍艦島関係の本に載っていた覚えがあります。
乗り移るのに、大変だったと書かれていたようですね。
朝鮮人寮、吉田飯場、中国人住居についてお尋ねしていますが、戦前に警察の派出所は、軍艦島にあったのでしょうか?
宜しくお願いします。
小説「クローン侯爵」は、七月十一日から書き始めました。
現在四百字詰原稿用紙に換算して、二十八枚です。
これから2〜3カ月かけて、原稿を仕上げます。
右肘の怪我が完治したら、中仙道みたけ館にも行ってきます。

Re: お邪魔します。 管理人 - 2009/07/15(Wed) 03:28 No.4421

▼羽澄不一さんへ

「死者への手紙」に掲載されている「木造二階建ての建物が朝鮮人寮」は
何ページの写真かを教えて頂ければと思います。

ちなみにP43に掲載されている写真には、
「端島の北側にあった朝鮮人寮。右側は戦後建てられた病院」
と説明書きがありますが、
この写真に写る左側の建物は昭和33年に改築されたRC造の隔離病棟で、
画像中央に移るのは右の病院と隔離病棟をつなぐ廊下です。
この隔離病棟は、建て替え前は木造ですが、
戦前からすでに同じ位置にありましたので、
p43の写真の位置に朝鮮人の方々用の建物があったとは、
考えにくいと思われます。

警察の派出所が戦前にあったかどうかは、
わかりませんので、これから調べてみようと思います。

亜炭の鉱山跡は一度も見たことがありませんので、
中仙道みたけ館をはじめ、炭鉱跡などを見学なさったら、
いろいろと教えて頂ければと思います。



お邪魔します。 投稿者:羽澄不一  投稿日:2009/07/09(Thu) 10:28 No.4413

ご指摘有難うございます。
朝鮮人寮の写真は「死者への手紙」に出ています。
私が持っている軍艦島の地図は、南北が明確ではありませんが、「北」と言えば、北の方かな? という気もしましたが、分かりません。
今、手元に軍艦島の地図がないので、うろ覚えですが、日給住宅と言えば16〜20号棟かな?
自宅で確認してみます。
「三菱炭坑技術」というのは、どうやら雑誌のようですね。

Re: お邪魔します。 羽澄不一 - 2009/07/09(Thu) 13:37 No.4414

軍艦島の地図を見てみましたが、ご指摘頂いた39・48号棟は、「北方」と言ってもいいと思います。
ですから、これが朝鮮人寮でしょうね。
ただ、病院というのが不明ですが……。
林氏の誤記でしょうか?

Re: お邪魔します。 羽澄不一 - 2009/07/10(Fri) 10:26 No.4416

もし、ドルフィン船橋からの人道トンネルが戦前&戦中になかったとすれば、当時の船着場はどこだったんでしょうか?

Re: お邪魔します。 管理人 - 2009/07/12(Sun) 07:39 No.4419

▼羽澄不一さんへ

「死者への手紙」を見返してみました。
確かに隔離病棟と端島病院の間あたりを撮影した写真が掲載されていましたね。
この付近にも朝鮮人の方々の住まいがあったということでしょうか。

また島は分かりやすい方位に伸びている訳ではなく、
大まかに言って長尺が北東←→南西を向いています。
島の南や北という表現ですが、
例えば31号棟の前身の商店街を南部商店街とよんだり、
閉山時にあったプールを南部プールと呼ぶ様に、
本来は島の中心からみれば西ないし南西の方角ですが、
いわゆる30号棟がある方角を南部と呼びます。
39号棟や48号棟は正確な方角だと北西にあたりますし、
この一帯を北部とは呼ばなかったんではないかと思います。

ドルフィン桟橋建設前も、島への出入口は同じ位置にありました。
桟橋建設前は、沖で艀に乗り換え、
島の出入口付近から降ろされるタラップを渡って島へ入っていました。
ドルフィン桟橋建設後もタラップによる入島は同じで、
ただタラップに艀から移るかドルフィン桟橋から移るかの違いだったようです。

ドルフィン桟橋建設後は、そこが一般的な出入口になり、
学校横の「すべり」は行商船や霊柩船(とは言わなかったと思いますが)の発着につかわれるようになったようですが、
それ以前は学校横の「すべり」や外海側の「めがね」、
更に戦前などは病院裏にあった「すべり」なども、
一般的な入島口として使われていたようです。



お邪魔します。 投稿者:羽澄不一  投稿日:2009/07/07(Tue) 10:34 No.4410

ご回答有難うございます。
あまりスレッドが長くなってもいけませんから、私が毎回書き込む毎に、新しいスレッドを立ち上げましょうか?
そうすれば管理人さんはオープロジェクト関係の新しい書き込みをいつも冒頭か、冒頭付近に出せますからね。
朝鮮人の方(吉田飯場)はビルの一階、寮は島の北端。中国人の方は島の南端という記述が資料にありました。
ご指摘の39〜48号棟付近のものはどちらか、ちょっと考えてみます。
ところで、戦前に地獄門(現在のドルフィン桟橋から島へ入るトンネル)と地獄坂(段)はあったのでしょうか?

右腕の怪我は、ベッドで寝返りをした時、右肘をベッドの端の鉄の部分に打ちつけたものです。
馬鹿馬鹿しい限りですが、内出血でもの凄く腫れ上がり、3週間経っても完全には腫れが引いていません。
完治にはあと2週間ぐらいかかると思います。
馬鹿な事です(笑)。

だから、中仙道みたけ館に行く前に、小説「クローン侯爵」を、もうそろそろ書き始めようかと思っています。
今日は文中に挿入する歌詞を書きました。
タイトルは「軍艦島のレクイエム」とか、「軍艦島ララバイ」とかいった感じにします。
すでに使われていたら、別のタイトルを考えます。

米国のマクナマラ氏が死亡しました。
彼はかつてご自身の写真付きのお手紙(英語)を下さった記憶があります。
ご冥福をお祈りします。

Re: お邪魔します。 羽澄不一 - 2009/07/07(Tue) 16:44 No.4411

教えて頂いた39〜48号棟辺りの木造の建物は、多分朝鮮人寮ではないでしょうか。
「死者への手紙」では、端島の「北側」にあった朝鮮人寮(木造二階建て)の写真があります。
ただし、寮の写真の右側には戦後建てられたという病院の建物が写っていますが……。

他にも吉田という朝鮮人の親方の吉田飯場が、島のどこかにあったようです。
軍艦島には吉田という名前の朝鮮人が経営する朝鮮人の売春宿があったようですが、吉田飯場とは経営が同じだったのかな? と、ちょっと疑問に思います。

高島石炭資料館に電話しましたが、どうも専門の係員がいない無人の資料館のようですね。

Re: お邪魔します。 管理人 - 2009/07/08(Wed) 00:43 No.4412

▼羽澄不一さんへ

スレッドに関してお気を使って頂き、ありがとうございます。
毎回スレッドを立ち上げて頂くと、とても助かりますので、
よろしくお願いいたします。

朝鮮人の方の飯場の名前を伺って、
私も「遊郭吉田」のことを思い出しました。
もうすこし調べてみる必要がありますね。

また39号棟、48号棟付近を「島の北端」とは云わないと思いますし、
病院が隣に写っているならば、
明らかに39号棟、48号棟付近とは別の場所だと思います。
これももうすこし調べてみようと思います。
加えて「ビルの1階」という文字を見て思い出したのですが、
日給社宅の1階に朝鮮人の方々がいた事もあった、
と聞いた事があります。

中国人の方々が南部に住んでいた話は、具体的に聞いた事がありますので、
事実ではないかと思います。

地獄段に関しては、戦前の写真で、
下部(日給社宅16号横)と上部(神社付近)が写っているものを見た事がありますので、
恐らく戦前からあったのではないでしょうか。
地獄門(人道トンネル)が戦前からあったと具体的に聞いた事はないので、
機会があったら調べてみようと思います。

高島の石炭資料館は、
お調べの通り、常駐の管理人とかがいる資料館ではなく、
鍵を借りて自主的に見学ができる資料館です。

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