■ ドルフィン桟橋 ■


  島民の長年の切なる願いを叶えるた めに生まれたのが<ドルフィン桟橋> と呼ばれる可動式接岸桟橋でした。波 の上下、潮の満ち引きに合わせて桟橋 が上下する構造の船着場は画期的な発 想でしたが、昭和29年(1954) 完成の日本初のドルフィン桟橋は、昭 和31年の台風9号で流出、より強固 に改造した昭和33年(1958)完 成の2代目も翌年再び台風14号で流 出してしまいます。それらの経験を元 に護岸から15mの海底岩盤を3m掘 り下げ、25m×12m、高さ15m の人工島に桟橋を組み込むことによっ て、台風の猛威にも耐えうる頑丈な3 代目船着場が完成したのは昭和37年 (1962)のことでした。

  現在もその基礎部分が残存し格好の釣り場になっています。画像は堤防側からの景観で、奥の2つの窪みに乗降桟橋が設置され、手前の 長方形の窪みに島側からの上陸用デッキが渡されていました。

■ すべり ■


  学校横の堤防沿いには<すべり>といわれた船着場がありました。

<すべり>というのは、この船着場がスロープ状になっていたため で、その構造上から大きな船は接岸できず、おもに対岸の野母半島 からの野菜の行商船が発着していました。
  島内への出入口は扉のない常時開放状態のものでしたが、この事 が大きな要因となって、閉山後の平成3年(1991)の大型台風 の際に堤防が決壊し、学校下とグランドの土を根こそぎ海へ押し流 してしまいました(写真)。その後堤防は修復され、現在ではグラ ンドも一見平坦な土地に戻っているかのように見えますが、修復が 完全ではないため、学校下の土壌は年々流出して、今では空洞の状 態になっています。


写真は<TAMAさん>に提供していただいたものです

■ めがね ■


  外海側にある船着場は通称<めがね>と呼ばれた出入口を降りた 所にありました。大正期まで使われていたようですが、それ以降は 内海側の2つの船着場に役目を渡し、後期にはゴミ捨て場となって いました。
  島の外海側と内海側では、その波質が明らかに違います。東シナ 海の外海側はよほどの凪でないかぎり波のうねりは大きく、逆に内 海側は島全体が防波堤の役目を果たしているので、波も穏やかです から、船着場が外海側から内海側へ移動して行ったのは容易に想像 できます。
  閉山間近の頃、ここへゴミを捨てに行った女性が波にさらわれ死 亡する事故が発生し、ゴミ焼却炉が造られました。

■ 旧船着場 ■

  これら閉山時にあった船着場とは別に、

昭和初期の絵葉書を見ると島の北西端の 辺りにスロープ状の船着場が描かれてい ます。
  この位置は長崎や高島から船で来る際

に最も最初に到着する位置にあたるので、 少しでも労力を少なく島に上陸するため
の発想だったのではないかと思われます。 しかしその後の写真をみると、この付近
に大量のテトラポッドが投下されていて、 それはこの付近が実は波の影響を強く受
けやすい場所だと言うことだと思います。

到着までの労力より、上陸の困難さが勝 り船着場は廃止されていったのだと推測 できます。またこの付近は反対側の南部 方面より海底が浅いので、船が大型化す るのに従って使われなくなったとも考え られます。


『炭坑誌(葦書房)』より引用

現在の同じ場所の様子

 
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