昭和32年(1957)、日本初の海底水道<高島・端島海底水道>が完成し、端島の水問題にようやく終止符が打たれました。
水源は野母半島の三和町付近の5本の堀井と長崎市の鹿尾水系からのもので、<三和町為石浄水場>を経由し、海底に6,500mの長
さの水道管を敷設して端島および高島へ給水するという、一大公共事業でした。
これにより各戸給水が一気に普及し、島内唯一の室内風呂を設置したアパート(3号棟・昭和34年築)も建設されました。(以降閉山
までに住宅棟としては2棟(51号棟、13号棟)がつくられていますが、これらには室内風呂は設置されず、結局高級職員のアパートで
ある3号棟のみが島内唯一の室内風呂を設置したアパートでした。)
ただ水の制限がなくなったことで、島内の水使用料は一気にはねあがり、当時の都市部の平均的家庭用水使用料の1.5倍から2倍の量
が消費され、これは東京にも匹敵する消費量で、それにより今度は水源の確保の問題が浮かび上がることになりました。昭和35〜37年
の3回にわたる水源地の拡張工事でもその需要に追いつかず、昭和42年の4度目の拡張の際に、貯水能力10万tの<為石貯水池>が完
成します。
■ 海底水道取込口 ■
画像は島南部のドルフィン桟橋(『海の道』で詳細解説)近くに
今も残る海底水道の取込口を島内から見た様子です。昔は野母半島
からの野菜船の荷揚げに使われていた場所で、同時に大波によって
島内に入り込んだ海水の排水口も兼ねていました。
ちなみにこの項目の左ナビ上のサムネイル画像は、取込口を海上
からみた様子です。
■ 貯水槽 ■
かつては海水専用の貯水槽でしたが、海底水道の開通により、海水
と清水を半分ずつ貯水するようになりました。
この貯水槽の上部には閉山時、温室がありましたが、第二次世界
大戦の戦時下には、対空機関砲が設置されていたこともあります。
海底水道開通後も給水船の時代に主に活躍した学校裏の巨大な2
槽の貯水タンクは暫く使われていましたが、昭和30年代の後半に
は使われなくなり、やがてその場所に島内最後の建築物、体育館が
建設されます。