■ 役場 ■


  住宅棟地域のほぼ中央に位置する建物(22号棟)の一階には、 <高島町役場端島支所>がありました。島内の殆どの建物は三菱の 社宅ですが、この建物と教職員宿舎(13号棟、ちどり荘)だけが 町営で建設され、階下には老人クラブがありました。所内には現在 も沢山の書類などが残存していますが、その中の一つに島内放送記 録がありました。「本日午前10時45分に皇太子殿下及び美智子 妃殿下のお召し船が表海岸を通過致しますので、表海岸から見える アパートではなるべく洗濯物などを室内に入れ、日の丸のある家庭 では日の丸を掲揚してくださいますようご協力お願い致します」昭 和44年9月8日の日付が記入されていました。
 
 
22号棟

■ 派出所 ■


  正式名称<長崎県長崎大浦警察署高島町端島派出所>は役場の入
っていた建物の隣の建物(21号棟)の1階にあって、駐在は2名 常駐していました。一島全体が一家族的な運命共同体的意識が強か
ったため、端島では凶悪な刑事事件はもとより、大きな事件も殆ど 起きなかったと言うことで、現存する収監用の木製留置所(画像) も、主に酔っぱらいの酔い覚ましに使われたそうです。
  林立するビル群に囲まれ、時代の先端技術がふんだんに取り入れ られた超近未来都市であったのとは裏腹な、この平和的な事実は、 ある意味端島が究極の理想的な社会の具現だったことを物語ってい るのかもしれません。
 
 
21号棟

■ 郵便局 ■


  郵便局は南部寄りの建物(31号棟)の1階にありました。明治 から大正にかけてこの付近は商店街を形成し、郵便局も戸建ての木 造でその中にありましたが、昭和31年の台風9号によってこの一 帯が甚だしい被害を受けたことにより、商店街の移動と鉄筋アパー ト(31号棟)への建て替えが行われ、郵便局だけが元来あった場 所に近い、31号棟1階の北側に造られました。
  壁面の下半分が青く塗装されていますが、これは下の端島病院も 全館にわたって同じ状態の塗装です。
  現在では郵便のマークもなければ、室内の残留物もなにもなく、 唯一残るカウンターと道寄りの受け渡し窓口跡だけが、当時を偲ば せるものです。
 
31号棟

■ 学校 ■


  端島には三菱社の経営下になってすぐの明治26年(1893)に、

既に社立尋常小学校が設立されていました。その後大正10年(19 21)公立に移管し、昭和9年(1934)に木造校舎が新築、昭和 33年(1958)年に建てられたRC6階建て(後に7階増築)の 校舎が現存しています。
  <高島町立端島小中学校>は、1〜3階には小学校(3階に職員室 と放送室)、4〜5階には中学校、6階には講堂兼体育館、音楽室、 図書室、7階には各種専門科目教室がありました。
  隣に建つ65号棟に、当時としては珍しいアパート設置のエレベー ターの計画もありましたが結局実現せず、学校にある給食用エレベー ターが、人員用ではないながら島内唯一のエレベーターになります。
 
70号棟

■ 保育園 ■


  端島では昭和7年(1932)に既に社立幼稚園が造られていまし た。その後昭和24年(1949)に当時端島を管轄していた高浜村 が村立幼稚園を開設し、島内唯一の寺院、泉福寺の本堂を舎屋として 使用していましたが、昭和27年(1952)に島内最大の鉱員アパ
ート(65号棟)の屋上にRC造で新築移転しました。
  昭和30年の高島町移管で<高島町立端島保育園>として閉山まで 運営され、最盛期の昭和36年(1961)には、園児220名のマ ンモス幼稚園でした。室内庭園が造られ(画像)戸外には植え込み花 壇やウオータースライダー式の滑り台もありました。
  当時国内で建物の一番高い位置にある幼稚園と言われましたが、狭 小な島だからこそ実現した空中幼稚園でした。
 
65号棟

■ 公民館 ■


  47号棟と呼ばれた鉱員住宅が台風で全壊した後に建てられた公民 館(39号棟)は、昭和39年(1964)建設のピンク色の壁面塗 装が施された建物でした。
  端島では労働組合と同様婦人会の活動も活発で、その活動拠点とし ての他、選挙の投票や各種文化教室の開催にも使われました。
  また島内には独立した図書館がなかったため、1階にあった図書室 のはたした役割はおおきかったということです。(学校の6階には図 書室がありました)
 
 
 
 
39号棟

 
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